弘前りんごの美味しさの理由はメリハリのある四季にあります。
美味しいりんごを育てる上で特に重要になってくるのは、夏から秋にかけての適度に冷涼な気候。りんごにとって暑さは大敵で、30度を越す夏日が何日も続くような地域では美味しいりんごは採れません。
一方で秋には、グッと気温が下がることも必要です。夏から秋にかけての温度変化は、りんごが着色するのに必要で、温度が下がらないと綺麗に着色せずに、そのまま柔らかくなってしまいます。
このように弘前の四季の変化は、りんごの生育条件にぴったり。
弘前の気候風土が、より甘く、歯触りをよくしているのです。
りんごが初めて弘前に紹介されたのは、明治8年のことです。
弘前の藩校の精神を引き継いだ私学東奥義塾教師の米国人ジョン・イングが、クリスマスに教え子らに西洋りんごをごちそうしたのが最初といわれ、県内でも初めてのことだったようです。
当時の新政府は、勧農政策に積極的に取り組み、種苗等の新品種を海外から求めては全国に配布していました。
配布されたりんごの苗木は県下一円で試作されますが、生育が良好で根付いたのは弘前周辺などを除けばむしろまれであったようです。明治10年に、弘前の養蚕家山野茂樹が屋敷畑(現在の弘前大学医学部)に試植していたものに初めて結実し、3個のりんごが収穫されました。
りんごの栽培は、先覚者たちの研究と努力によって成功の道を歩み、りんご熱は農家を刺激して各所にりんご園ができるようになります。りんごは生食用として優れ、加工用としても用途が広く、その栽培は、当事の士族が新規の事業とするのに最も適したものだったようです。
明治23年、東京で開催された第3回内国勧業博覧会で弘前のりんごは有功2等賞を受けます。その後、しだいにりんごの商品価値が認められ、鉄道の開通などもあって、東北から北海道・関東・関西に販路を広げていきます。
明治31年ごろから、りんごはさまざまな病虫害に遭い大打撃を受けますが、明治37年ごろからは画期的なりんごの袋掛け(有袋栽培)やボルドー液などの薬剤散布方法が導入され、また新しいせんてい方法が研究されるなど栽培技術が著しく進歩し、りんごの商品的地位が確立していきます。
明治39年、青森港が特別輸出港になり津軽林檎輸出業組合が設立され、上海などに輸出されるようになり、明治41年にはりんご輸送に冷蔵庫が利用されるようになります。
昭和39年、弘前市常盤坂(現在のりんご公園)で、最初のりんご花まつりが開催されました。
昭和48年、りんごわい化栽培による高性能機械化技術体系を実証し、普及の拠点とするため、りんごわい化栽培モデル園が弘前などに設置されています。
昭和49年には弘前市において、青森県りんご100年祭記念式典が挙行され、弘前に初めてりんごを紹介した、ジョン・イングの縁者を米国から招いています。
平成元年、第37回全国りんご研究大会が弘前市を主会場に開催され、平成2年には、青森県のりんご販売額が初めて1,000億円の大台を突破し約1,093億円と過去最高を記録しました。
平成3年9月の台風19号は、りんご栽培史上空前の被害をもたらしますが、全国からの温かい支援と生産者をはじめ関係団体などの懸命な努力によって、平成4・5年の弘前市の収穫量は、13万トンを超えて全国の約13パーセントを占め、全国一の生産量となっています。